松山市医師会報

第42号


安井正俊の戦死

末光喜代三

 安井正俊 故本会々員安井俊二郎の長男として松山に生れる。
松山中学・松山高校を経て昭和9年岡山医大卒業。
高知日赤眼科医長の時昭和16年9月応召。
第55師団第4野戦病院勤務。
昭和20年7月30日ビルマ国ぺグ―地区テビハラ部落東方2粁の地点にて自爆戦死。
松山市医師会々員あるいは松山出身の多数の医師が今次大戦の犠牲者として死亡されている。
その詳細を私はつまぴらかにしないが,同じ55師団に勤務した私にとっては,山口(耳)平賀(皮)本田(内)安井(眼)諸先輩の戦死は悲しい。
特に安井博士と私とは同じ第4野戦病院にあって最后迄行動を共にしていたので,いつかは博士の最期を語らねばならない責任を負わされていた。
戦后26年を経た今日,遅れぱせながらこの拙文を博士の霊前に捧げてその責を果したい。

 昭和16年9月南方作戦用として第55師団が善通寺で編成された。
丸亀112連隊徳島143連隊を基幹とする師団主力は仏印・タイ国を経てビルマへ,高知144連隊を基斡とする南海支隊はグアム・ラバウルを経てニュ―ギネアヘ進んだ。
安井はビルマで,山口・平賀・本田の諸氏はニュ―ギネアで散華された。
 私は昭和18年6月応召し見習士官として同年末インド国境の第―線に近い原隊に到者した。
当時師団は既に再編された南海支隊を統合していたが僅か1ケ師団の弱少兵力でよく敵3ケ師団の攻撃を支えていた。

 昭和19年ビルマ北西部におけるインパール作戦の失敗のため目本軍は遂次南東方に敗退した。
 昭和20年我々は遂lこビルマ西南部に取り残された。
5月上旬ペグー山系に入って部隊の集結を待った。
ペグ―山系はビルマ中央部に位置し,シッタン河とイラヮジ河の問にあり東西200粁南北500粁前人未踏の山嶽地帯で食物は何もない。
この時期以後部隊は野戦病院としての機能を失い戦闘部隊となった。
脱出する迄の3ケ月問元気な者は東に西に食糧を求めて盗職となり,あるいは敵状や道路自察を行ない脱出の機を待った。

ペグ―山系に集結した日本陸海軍の残兵は総数およそ2万。
その名称は策集団,兵団長宮崎中将。
(キスカ島撤退につづく)成功した稀な撤退作戦を指揮した。
所屈の主なものは第54師団(姫路)の主力,第55師団の3分の1,その他にラング―ンに残されていたもろもろの部隊を合み,婦人部隊もあった。
海軍と婦人は撤退の間全滅したとあとで聞いた。

敵はこの日本軍を完全に包囲し,いつ全滅せしめるかを楽しみにしておったのであろう。
我方は7月20日を期して敵中突破転進を開始し8月下旬おおむねビルマ東部に脱出し,作戦は成功した。
しかしその問兵員の3分の1を失っている,ビルマは丁度5月から雨期である。
田園は―雨の泥海と化し,河川の増水は甚しい。
日中は敵部隊や飛行機の襲撃をさけてジャングルに身をひそめ,夜間適なき所を星を頼りにただ歩きに歩き,河あれば泳いで渡らねばならない。
食糧は3ケ月の山中滞在で既に食いつぶしている。
マラリアは再発し重症の栄養失調に陥っている。
元気そうに見える者でも突然倒れてしまう。
歩けなくなって自ら自分の生命をたつ者がたえなかった。

 7月20日基地を出発し,南北100粁の間を小部隊に分散して各個に東ヘと進む。
 7月23ロ国道1号線を無事横断。

 7月26日湿地帯に迷い込み多数の水死者や精神異状者が出る。
其頃から安井中尉は下痢がひどくなる。
私は夜盲症のため前を歩く兵隊にひもをつけ,それを持ってひっぱってもらって歩く。
 7月29日無人のテビハラ部落に入って大休止。
夕方集中砲撃を受ける。
暗くなるのを待ちかねて東に走る。
深夜私の班の前を行く安井中尉が当番兵と共に休んでいる。
そんな余裕は今はない筈である。
下痢がひどいのであろう。
「末光君先に行ってくれ」「ではお先に」と先を急ぐ。
石手川位の急流を泳いで渡り,対岸のジャングルに入って30日の釧を迎える。
早朝安井中尉の当番兵が追求し,「安井中尉殿は自決されました」と病院長に報告している。
動けなくなった中尉は手梱弾を腹にうつ伏せになって自爆されたとのことである。
肉体は周囲に四散した。
遺骨・遺品は何もない。
又それを持参して歩く余力はもうない。
明日は我が身だと思うと何の感情も湧いてこない。

 8月1日最難関と予想していたシッタン河を渡河。
やっと敵地上部隊の接触から離脱した。

 これからは日本兵のおびただしい死休の紡く白骨街道を南下し8月23日日本軍の最前線安兵団の前肖線に到着した。
 今にして思えば,あと1日頑張ってくれたら,安井中尉はたすかったのにと悔まれてならない。
既に肉体の白由は失ったが,心はふるさとの山や河,御両親,可愛いい妻子のことを心深く抱きしめて,次の瞬間肉体は四散し魂はなつかしいふるさとヘ飛んで帰ったのであろう。  

戦后安井中尉は大尉に進納し,戦病死として報告された。

 博士の人問像を語るには他に適当な方が多数いる。
松山中学同期の古川林三郎氏・竹内健三氏,松山高校同級の吉野章氏・高上勲氏にお願いするのが適切であろう。
私は生家(西町)が彼(出渕町)のすぐ近くであったこと,小・中・高校を通じて先輩であること,以外に特別な関係はなかった筈である。
しかるに私が部隊に赴任して博士にお会いした時,久しぶりに兄弟が雨会した様な親近感をおぼえたのは何故であったろう。
 彼は快男子・豪傑・頼れる男・男の中の男としてあらゆる賛辞があてはまる。
死者をほめる御世辞ではない,部隊にあっては常に自ら困難な部署をかって出て,未熟な若い我々をかばってくれた。
戦争末期には食粒調達や敵状偵察隊長として自らを酷使し,遂には自らの命を断つことになった。
安井博士はそう云う人間だったのだ。
誠におしい人を早死にさせたものである。

    合掌  昭和46年8月15日記          (平和通り1,耳鼻科)


1998.04.10