廣戸幾一郎先生

                 松山市平和通1丁目5−35
                 末光 清貞

 私たちの時代の耳鼻咽喉科の教科書といえば東京大学教授、切替一郎先生の新耳鼻咽喉科学と九州大学教授、廣戸幾一郎先生の小耳鼻咽喉科書でした。
切替先生の新耳鼻咽喉科学は分厚くて値段も高くて、一方の廣戸先生の小耳鼻咽喉科書は薄くて安価、かつまとまりが良く分かりやすかったので殆どの学生が小耳鼻咽喉科書を利用していたように思います。
私ももちろんそうでした。

その小耳鼻咽喉科書の著者の廣戸幾一郎先生が昨年平成22年の9月に93才で亡くなりました。

  実は廣戸先生は私の父、末光喜代三と京都帝国大学で同級生でした。
廣戸先生は米子の開業医の息子さん、一方の私の父は松山の貧乏人の息子で、とある篤志家の援助で大学に進んでいました。
お二人は昭和18年の春に大学を卒業予定でしたが、ちょうど当時は戦火激しき折、卒業を半年繰り上げて昭和17年の秋に大学を卒業しています。
そのころ廣戸先生は耳鼻咽喉科へ入局するために耳鼻咽喉科教室へ行くと、既に同級生の色の黒い背の低い末光が手術の手伝いをしていたそうで、あんなヤツと一緒になるのは嫌だ、ということで外科の教室へ入局されたそうです。
  卒業後まもなく、昭和18年6月には二人とも応召、陸軍の軍医として入営しています。
私の父は京都駅で多くの出征者が見送り者の万歳で送られる中、私の父の見送り者は同じ松山から来ていた京大の一年後輩の石丸先生(小児科)たったお一人であったそうです。

  私の父はその後ビルマ戦線へ送られ、インパール作戦の失敗により状況が悪化、ジャングル内の白骨街道と言われた中を敗走し、途中多くの戦友が亡くなったと聞きます。
やっとのことで終戦まで逃げ延びた父はビルマのラングーンに収容され、戦争捕虜として1年以上を収容所で過ごします。
一方の廣戸先生は当初テニアンに派遣予定であったそうですが、第3高等学校、京都帝国大学をトップで卒業された頭脳を軍が守ろうとされたのか、急遽北京の軍医学校の教官として北京へ赴任されました。
終戦を北京で迎えられ、その後すぐ学生を連れて復員されています。

 復員後廣戸先生は京都大学の耳鼻咽喉科教室へ入られます。
一方私の父は復員が遅れ、やっとの思いで日本の地を踏み、京都大学へ戻ったとき既に廣戸先生は講師になられていました。
京都へ戻ってからも私の父は日々の生活に負われ、八幡浜市立病院、小倉記念病院、岐阜大学、関西電力病院などを短期ずつながら生活のために転々としています。
その途中で私は生まれました。
念願の講師にはなりますが、昭和29年に愛媛県立中央病院へ帰ってくることになります。
一方廣戸先生は昭和30年には京都大学助教授になられ昭和35年4月に久留米大学の教授になられます。
42才の若さでした。
私の父は昭和32年にこの地で開業していますので、京都帝国大学の同級生お二人は片や開業医として、片や大学教授として同じ耳鼻咽喉科医の道を進まれていくわけです。

 私は昭和44年に高校を卒業し、ちょうど東大紛争で東大の入試が中止になり、私個人には直接の影響がないにもかかわらず浪人となりました。
翌昭和45年、廣戸先生が教授でおられる久留米大学を受験しますが、見事に不合格。
翌昭和46年にやっとの思いで久留米大学に合格いたします。
しかしちょうどその昭和46年1月に廣戸先生は九州大学教授に転任されていました。
代わって久留米大学教授になられた平野実教授に「末光の息子はまた来年受験するだろうが、出来が悪いので無理であろう」という申し送りをしておられた、とは後に平野教授からお酒の席でお聞きをしました。
当時平野教授は38才でした。

  父は私の入学を本当に喜んでくれ、入学式には既に病気になっていましたが久留米までやってきました。
入学式を終えて途中熊本の温泉に立ち寄って松山へ帰って行きましたが、それが父の最期の旅行でした。
昭和48年、私がまだ大学2年の時に父は55才で亡くなりました。

 私が廣戸先生にお目にかかったのは、九州大学から年に一度客員教授として久留米大学へ講義に来られた時です。
喉頭癌の講義でしたが、お声は大きく、理路整然と非常に明快な講義で、今もその内容がはっきりと思い出されます。
素晴らしい講義でした。
講義が終わってからお会いして、末光です、とご挨拶をすると黙って握手をしてくれました。
持っていた小耳鼻咽喉科書にサインをしていただきました。
  廣戸先生はその後九州大学の定年退官を待たず小倉記念病院の院長として赴任されました。
私は大学卒業後愛媛へ帰りましたので、廣戸先生とはほとんどお会いすることはありませんでしたが、時々学会で一番前に座っておられる怖いお顔の廣戸先生を何度か遠目に眺めておりました。
昭和57年に、京都大学医学部の卒業40周年の物故者供養の会が京都であり、遺族として私も出席して、その時にもご挨拶をしましたが、学会会場とは違ってお優しい顔をされていました。
昭和17年秋の卒業者は戦争でたくさん亡くなられていたようです。

今頃はまた同級生お二人、学生時代に戻ってかの地でお顔を合わせていることと思います。

ご冥福をお祈りいたします。

平成23年7月記